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にゅん。のにゅん。によるなにか。→衣谷の衣谷による何か。 小説の事とか、いつものこととか、コーヒーの事とか、うつ展開なこととか。
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疲労がたまってるから、もうちょっとお休みしてから。

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というわけで、明日から卒業旅行に出発する次第。装備はバックパッカー並み。

とりあえず未踏の地九州を目指すわけだけれども、出発時刻明朝0500 hrsというわけで、寝られる気がしないわけさ。うん。
とりあえずなにか小説のネタになりそうなものがあれば吸収していきたいなと思っている所存。次回作をどうしようかはまだ形になってはいないんだけれども、どこかでエッセンスを加えられれば、あるいは舞台にできればいいかなって思ってる。

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万年筆のお話。

万年筆を手にすると、やっぱり英語が書きたくなるわけさ。万年筆とアルファベットの親和性はただならぬところがあるからね。

それで任せるがまま筆を動かしてできたのは、ちょっとしたヤツ。まあ、前々からいろんなところで書いてるThere are ways where there is a willをスタートにした奴。


There are ways where there is a will,
Never mind whether you fail or not.
Your failure makes you lead to success,
Not steers to deep black abyss.
Watch the forward to find stones,
Waiting in your ways to knock you down.

意志あるところに道あり
己の過ちを悔いるなかれ
汝が過ちの導くは成功
汝が過ちの導くは深淵に非ず
正面の石に気をつけろ
石は汝を倒そうとする

trochee tetrameter(強弱4歩格)になっていたから自分でもびっくり。
とはいえ、なにが言いたいのかさっぱり分からないけれどね。

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バイト先を退職。

考えてみれば、そこに入ったのが大学1年の6月だから、3年と9か月働いたってことだね。いやー、長かったのか、短かったのか。まあ、いろいろあったけれども、良くも悪くも鍛えられたかな。


そして明日は大学の卒業式。なんつーか、立て続けな有様。

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卒業旅行どうしようか―という話を同じ大学の友人さんとしているわけだけれども。
流れは九州で、さてどこにしようか、と言う話しであたいがだしたのは「高千穂」

考えてみれば、日本神話のスタート地点と言えば高千穂なんだから、ファンタジーを専門だと言い張る身としてはやっぱりフィールドワークは大事だなって。ファンタジー関係でフィールドワークできるってそう多くない気がするからさ(文献資料が多い気がする)。

で、実際どう行くのかな、と言うのを調べてみたのさ。鹿児島空港から車でちょっと行けば登山口につくみたい。片道2時間程度の登山。

ただね、

噴火警報レベル3

という状況に置かれているらしく(気象庁でも確認)、高千穂の天の逆鉾も入山規制エリアに入ってるというじゃないか!

てなわけで、高千穂フィールドワークはとん挫した、というお話。

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コーヒーメーカーのエスプレッソ抽出器、壊れました。というか、壊しました。

事の始まりは、メンテナンス作業なんさ。コーヒーメーカーの内部にたまった石灰分とか水垢とかを一掃するための奴なんだよね。レモン果汁とか酢を混ぜた水で普通の掃除じゃとれないものを溶かし取るわけだけれども、改めて説明書を見たら、いつもはメンテナンスをしてないところもメンテナンスしろという説明があって。

専門的には濾過網って言い方をするらしいけれども、平べったく言えば、コーヒー豆に湯を注ぐジョウロの先っちょみたいなパーツ。円盤状のフィルターで、コーヒー豆の粉末がポンプの方に入らないようにしたり、お湯に圧力をかけるときに偏りが出ないようにする部品。

それを取り付けているネジが、かったいことかたいこと!

十円玉はあられもない姿に曲がってしまって、100円玉で試そうにもねじの溝にはまらない。で、金属加工の類に長けた親さんに救援を求めて、親さんがやったのがハンマーで力を加えて回す、という荒業。

すると、ねじ山が、

とれた。


よくある話で、ねじ山がつぶれる、ってのがあるけれども、ねじ山そのものがぽっきり取れてしまったわけさ。驚いたね。
まあ、その濾過網が取り付けられない以上エスプレッソも作れない、と言うわけで。さくっと熱帯雨林さんにすがった次第。

ただ、最大の問題は、エスプレッソは作れないけれども、レギュラーは普通の作れるということ。レギュラーしか作れないのに、かなりかさばる……切っちゃおうかな……

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今回から通常運転な次第。あーしんどかった辛かった。


とはいえ、バイト先でちょっとやらかしてゲンナリ状態での再開なわけだけれども。クレームまでくると、ねえ……


とりあえず基本情報処理は午後試験にフォーカスを当てた勉強をしている次第。機械語の命令がややこしくてたまらない。「2042h」で一つのコマンドだなんてまぢ信じられない。

あと、体重計を買ったよ。シンプル伊豆ベストな感じの体重計。で、それで体重を量ってみれば……まあ後のことは察してくれ。

そして久しぶりのうれしいニュース。某DiGiket.comのキャンペーンで作品登録したところ、「ご当地おいしいものプレゼント」に当選したよ。あたいが頼んでいたのは、

魚沼産コシヒカリ魚沼三昧

という米だらけセット。魚沼のコシヒカリと言えば一流ブランドだからね。しかも送られてくる可能性のある商品は有機米かもしれないという贅沢ギャンブル仕様。これは下旬の配送が楽しみだす。

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***訂正記事ココカラ********
前回の『だからあたいはあたいをころすことにした』において、花があたいにもたらした事柄について、以下の内容が不足していることが発覚。
  • 自分では諦めたと考えていたのに、始めから期待していたものをずっと期待していた自分に気づいてしまった。
というわけで、これも含めてもらえればと。
***訂正記事ココマデ*********

 小学校から大学までを一通り連載してきたわけだが、最終回として、どうしてこの連載をすることにしたのか、表現が今ではどのようなものに感じているのかを書くこととしたい。

 まずはこの連載をすることにした理由だが、本当はこれを最後の個人誌の内容にするつもりだった。もちろん今まで書いてきた内容をメモとして残していたわけではないけれども、書いたとしてもこの内容をもっと膨らませたり脚色したりしたものになったのは間違いない。
 あたいの人生は「「小学校のアレ」とどう向き合ってふるまってゆくか」が常に解決しなければならないテーマとして存在していた。小学校は逃げるにも逃げられない教協だったがために考えるのもできず、中学校になってようやくその違和感を感じ始めて、ここでついに、自分の根底に流れる重大な問題に気づいたわけである。
 特に小説という武器を得た高校以降、あたいは自分自身を眺めつづけて、どうにかしてアレから逃れようとした。そうして結局、どうすれば逃げられるのかいまだ分からずにいる。けれどもひとつだけ、逃げるためにやらなければならないと思うようになったことがある。
 それが、あたいのつまらない身の上だれかが目にできるような場所にアウトプットすることだった。喋っても活字でもよい、とにかく、誰かの人の目に触れさせればよい。
 あたいの中にうまれたアイディアはアウトプットだけだった。これがあたいに何をもたらすかは全く分からないのだけれども、それ以外にあたいができる手立てはなかった。そのため、プラン自体はだいぶ前からあった。しかし、ちゃんとコンテンツとしてまとめられる自身がなくて、何度もやろうと思ってやらないことが続いた。それじゃあいけないと分かっているから、最後のチャンスである最後の個人誌をこれにあてようとした。けれども、売り上げのことを考えたら、だれも手に取ってくれないと思ったら、立ち直れそうになかった。
 結局個人誌もエッセンス程度に抑えることにした。予想通りの売り上げで胸をなでおろしたのは秘密。
 そうして、卒業式を目前に控えて、アウトプットをしてしまおうと連載をした次第である。

 最後に、あたいが表現する理由について。
 はじめ、あたいにとって小説はボクサーのグローブだった。暗黒時代の元凶にたいして攻撃をするハイリスクハイリターンの武器だった。けれども、高校、大学と経るにつれて、小説に求めているものがどんどんと変化してきた。単なる武器だったのが、自分自身の成長を感じられるもの、努力の結晶となった。努力の結晶が、自分を洞察するためのインターフェースとして自分自身に目線を向けるものとなって、いつしか小説が自分のものではなくなった。ある意味では自分のものだけれども、自分のものではない。
 小説が、表現が、人に読んでもらうものとなっていた。読んでもらって、評価してもらって、そこで初めてあたいは充足感を感じられるようになった。書き終わったとしても、一瞬の達成感だけで、満足を得られない。誰かに読んでもらわないと苦痛を覚えるようにもなった。
 この変化がなにを意味するのかは、読んでもらえたときの感情にヒントが隠されている。ある小説で、感想のコメントを残してくれた方がいた。作品の多くの部分をほめて下さったコメントをよんだあたいは、自分が知らないだれかからその存在、あたいとしての存在を認めてもらえたように感じた。小説がいつしかあたい自身の代理人となっていた。

 あたいは、自分の存在を認めてほしくて、自分がここにいることを知ってもらいたくて、表現を続けているのだと思っている。結局のところ、あたいは人が恋しかったのかもしれない。人の気を引きたかったかもしれない。あたいが書いた作品が読まれることによって、実際はあたいではなくて作品に目が向いているのに、そう思い込みたかったのかもしれない。

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 ついに高校に入ってからあたいの時間がゆっくりと動き出したが、それまでの9年間のギャップを埋めるためには3年間は短すぎた。高校の次のステップ、大学でもその時間を埋めてゆかなければならなかった。
 とはいえ、高校での「覚えておきたい事柄」のおかげもあって、自分の中ではだいぶ期待をしていた。このままの調子で行けば、きっと大学を卒業するころには並の人間と同じような振る舞いができるのだろう、そう期待を持っていたのが東京国際フォーラムAでの入学式だった。

 大学のクラブ案内で『文藝會』の案内を見たときは、信じていない神に感謝の言葉を唱えた。大学の文芸クラブなのだから、さぞ小説の切磋琢磨ができる、互いに表現力を磨きあえる、そんな仲間たちを得られるものだと思っていた。なにも関連性のないところからつながりを作りだすことは自分には難しいけれども、小説という同じ土俵であれば、自分から何かできるかもしれない、そう信じていた。
 けれども、この願いは簡単に破られた。あたいが信じていたような、小説の書く力を伸ばしあおうとか、どう書けば面白くなるのか(人によって面白さなんて違うだなんて、分かり切ったことを指摘されたな、そういえば)なんていう、小説を書くのに役立ちそうな情報交換もなかった。ただ、小説とは関係ない話をするぐらいか、文藝會だというのにアニメや漫画の話。それも決して悪くはない、それがコンテンツの作り方だとか、ストーリーテリングとかいう点で参考になる点があると思うから。でも、彼らからそういった話を聞いた覚えはあたいにはない。
 彼らにとって小説はどうでもよい、少なくとも彼らは小説に対して本気じゃない、あたいにはそう思えてならなかった。だからあたいははじめに期待していたことを追い続けないことにした。自分で考えて、自分で学んでゆく。文藝會はあたいの習作の場、つまりは実験場として扱うようにした。当然、所属する身として最低限のことはした。

 あるとき、部長交代があって、部としての方向性を定めようという話があった。年最低1作の作品を寄稿するなどといった内容は、正直あたいにとってはどうでもよかった。個人的にはむしろ大賛成だったけれども、どういうわけか、そこで集団を考えてしまった。大学に入って創作の道に踏み外す人たちの受け皿としてその内容は酷ではないか、と。ほかに一人(だけ!)が部長の意見に対して異を唱えて、結局は部長が考えていた方向性とはならなかった。

 どうしてあたいは文藝會全体を考えてしまったのか、その時は分からなかったけれども、その数か月後に、その理由が明らかとなった。
 学園祭最終日だった。文藝會での学園祭担当に、彼女の友人から、花が一輪、贈られた。それがうらやましくて、苦しかった。
 彼女は毎週のようにある学園祭のための会議に参加して、あらゆる手続きを取り仕切ったわけで、相当の苦労をしているのは理解していたし、称賛される立場にいるのは間違いなかった。その年の文藝會ブースの運営はカノジョの賜物だった。
 だから、彼女に花を贈られるのは然るべきことというか、それだけでよいのかという思いさえもあった。あたいが羨望や苦痛を感じたのはそこではない。一輪の赤い花が、あたいに現実を突きつけた。
 映像や小説において、周りの物体が自分からするする離れていって、真っ黒な空間の中に一人取り残されるような演出がされることがしばしあるが、そのときのあたいはたしかにその状況だった。感じ取ってしまった。
 あたいに、ああやってくれるような人は今までいなかったなあ。
 たぶん、これからも、ないんだろうなあ。
 あたいには小説しかない。小説は努力が表に出るものではない。むしろあからさまに小説こんなに頑張ったのだよー、と言いふらす方が問題である。どんなに勉強したって、技術を身につけたとしても、それを評価する人はだれもいない(せいぜい芥川や直木ぐらいか)。小説の世界は良くも悪くも結果主義、成果主義だ。面白い小説が書けなければ何もかもが無駄に終わる。そういう世界だ。
 あたいが作品でまともにコンクールの受賞レースに勝ち残れないようじゃ、一生かかっても評価されない。あたいがどれだけ面白さを追求したって、あたいの作品に関心を持つ人なんてだれもいないのだ。関心がもたれないのは、つまりはつまらないということ。無関心こそ、あたいにたいする最低の評価だ。
 あたいから小説を奪ったら何も残らない。いま、だれもあたいの作品に関心を示していない。だから、だれかに見ていてほしい。読んでほしい。
 この願いは、その日の帰り電車で、あたいを泣かせた。人目をはばからず、むせび泣いた。死にたいぐらいにつらかった。

 それ以後、文藝會に向けて作品を寄稿する気力がすっかり薄れてしまった。『作品数が足りないかも』という声には半ば流れ作業のように紙面を費やすものを提出した。なにも作品数や内容に関する情報がないものには、寄稿しなかった。本当ならば、『必ず』提出しなければいけないという合同誌に対しても、出来れば作品を書きたくなかった。ただひとつ、自分ですべてを取り仕切る個人誌だけは書く気に慣れた。そのせいで読書会をする機会を自ら奪ってしまう形となった。個人誌の読書会はしてもらえない。個人的な集まりとして開催することもできたろうが、あたい以外だれもいない読書会を想像するのはたやすかった。

 あたいが予想していたような、順風満帆な大学生活とは程遠かったのは、文藝會にはいってしばらくしてから、小説というあたいの重要な要素を棄てなかったからかもしれない。そうすれば小説に対する上昇志向はなくなって、もっと文藝會というものを楽しめたかもしれない。けれども、それは無理な話だから、つまりはハナからあたいのリアルが充実大学生活は約束されないものだったということとなる。
 小説を棄てるにせよ、満足いく大学生活を棄てるにせよ、どっちにしたってあたい自身を何らかの形で殺さなければならなかったわけだ。

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 小学校編、中学校編、高校編ときたので、次は大学編となるわけだが、今回はちょっとお休みとして、教育機関での区切ができない長期的なネタの話をしようかと思う。まず、あたいの記憶、つまりあたいがいままで話してきたことに関する補足的な話と、大学編でも関わってくる考えについて。もう一つは、あたいの筆名「衣谷創」なる存在はいったい何者なのか、というトピックである。

 あたいの記憶、自分ではいい方だと思っている。基本的に大概のことを覚えているし、大概話の中で覚えていないと答えるのは、多くの場合はそう答えた方が会話が続くからで、本当に忘れていることはめったにない。だから、自分に不都合なことをとぼけていることもしばし。あまりよい癖ではない。
 だが、あたいが本当に覚えていないのは中学校までの記憶である。厳密には『ほとんど』覚えていなくて、覚えていることもほとんどが覚えておきたくないことばかりである。ただ一つ、卓球のダブルスで勝った記憶だけはきわめてポジティブな記憶だ。当該の記事をもう一度見直してもらえれば分かると思うが、具体的な描写のない記述がほとんどである。言葉にあいまいさがにじんでいる。よくも思い出せないであのような分量のネタを語ってきた。
 嫌なことは忘れ去りたい、思い出したくもない。あたいの暗黒時代に対する願いは半ばかなえられようとしている。成人式の際にあった同窓会でも、多くの人々の名前を思い出せなかったし、顔も分からなかった。けれども、当事者の姿はいまだ覚えていたし、理解していたし、ある意味では都合の悪いことばかりを忘れている気がしてならない。肝心なことを忘れてくれていない。

 ここで一つ脳科学的な説明をしておく。人間の脳と言うのは、実に本人にとって都合のよい造りとなっている。思い出す必要がないと判断された記憶に対してはその記憶へのアクセスができなくなり(という面倒なかき方をしているのは、人間の脳はおおよそ120年分のの記憶全てを保持できるらしいから)、思い出せなくなる。また、こうやって断片化した記憶を再構築する際、つまりはこうやって語っているときには、補完機能が働く。つまり、ばらばらに分断された諸要素を、いかにもそれっぽくつなげるのである。それが正しいか否かは関係なく、当人はそれが実際に会ったものと認識しているからタチが悪い。
 暗黒時代の記憶が消えかかっているあたいにとって、まさにこの補完機能が牙をむいているのである。あたいはあたいの記憶を信用できない。そもそもひどい仕打ちが実際にあったのかどうかも疑わしい。当該記事で「いじめ」のワードを使わなかったのはこれが理由だ。いじめを受けていたと自分の記憶は訴えている、でもそれは事実であるかどうかは、実際のところ、あたいにも分からない。
 あたいには、自分の成立について信頼できない点がある。
 これがあたいに新しい苦しみをもたらしている。あたいは間違いなく暗黒時代の出来事で人間的な成長が長期にわたって停滞、あるいは後退してしまったと思っているし、現に人間的な振る舞いにおいてためらいや恐怖が残っている。だが、自分が陥っている状況を根拠づける過去の事柄について、あたいは間違っているのではないか、正しくないのではと思っている。だとしたら、信用できない現象によっておかしくなっているというありさまは、あまりにも不可解ではないか。 間違っているのに、どうしてあたいはそれに基づいた振る舞いをしているのか。間違っているのなら、あたいが暗黒時代と思っていた時代をもっとより良い時代に感じられる方法があったのではないか。

 この段階で、「衣谷創」という存在がせりあがってくる。小説を書きはじめたのが広義的には中学生から、教義的には高校生からであるけれども、衣谷という筆名を使うようになったのは高校1年の終わりごろだった。たぶん、この名前を使うようになってから思考回路がいくらか変わった。小説を追求し始めたと同時に使い始めたから、じつは筆名など関係なく、小説というものを手に入れたからだとは思うが、筆名を使うようになっては幾分か気の引き締まる思いであったのは間違いない。とはいえ、つきつめてゆけば、衣谷創という名前よりも、小説を書くという行為に影響されているのは予測できる。
 小説は自分の中に語り手と言う他者を作って物語るものだ。自分の中になにか違うものSomething Wrongを想定して、そいつの視点をシミュレートする。こうして物語の視点を得て、文字に落としてゆく。あたいのこの思考は、仮想空間だけではなく、現実にも向いた。あたいの本心はこうだけれども、こうしたほうがよい。「こうしたほうがよい」という考えが語り手の語りに他ならない。本音と建前という言葉があるけれども、あたいにとっては建前と言うよりも、語り手。あたいの主観的な考えと語り手視点をシミュレートしたものによって行きついた考えがごちゃごちゃになっている。
 おそらく、あたいはこの語り手を「衣谷創」と表現していることが多いのだと思う。あるいは、自分ではないなにかをシミュレートする装置を衣谷創と表現しているのか。こうやって自分とは違う視点を想定して、あたい自身を見つめたときに、その信用できない記憶に気づいてしまったのだと自分では考えている。

 忘却は新しい苦しみをもたらして、くしくもそれはあたいがのめりこんだ創作によって、あたいが生み出した「衣谷創」によって発見してしまった。けれども、「衣谷創」がなければあたいはいまだに自分のバックグラウンドを信じて疑わなかったし、従来通りの思考に縛られて、現状よりもひどく疲弊していたに違いない。生きているかどうかも、あたいには分からない。ひとまず、「衣谷創」に感謝する必要はありそうだ。

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HN:
衣谷 創
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性別:
男性
職業:
プログラマー見習い
自己紹介:
とりあえず、メンタルの波が激しい今日この頃。
小説を書いてます。素人ながら。
コーヒーを飲んでいます。素人ながら。
サークル「にの、にの?」の人だす。

ソフトウェア開発企業に就職しました。

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