小学校編、中学校編、高校編ときたので、次は大学編となるわけだが、今回はちょっとお休みとして、教育機関での区切ができない長期的なネタの話をしようかと思う。まず、あたいの記憶、つまりあたいがいままで話してきたことに関する補足的な話と、大学編でも関わってくる考えについて。もう一つは、あたいの筆名「衣谷創」なる存在はいったい何者なのか、というトピックである。
あたいの記憶、自分ではいい方だと思っている。基本的に大概のことを覚えているし、大概話の中で覚えていないと答えるのは、多くの場合はそう答えた方が会話が続くからで、本当に忘れていることはめったにない。だから、自分に不都合なことをとぼけていることもしばし。あまりよい癖ではない。
だが、あたいが本当に覚えていないのは中学校までの記憶である。厳密には『ほとんど』覚えていなくて、覚えていることもほとんどが覚えておきたくないことばかりである。ただ一つ、卓球のダブルスで勝った記憶だけはきわめてポジティブな記憶だ。当該の記事をもう一度見直してもらえれば分かると思うが、具体的な描写のない記述がほとんどである。言葉にあいまいさがにじんでいる。よくも思い出せないであのような分量のネタを語ってきた。
嫌なことは忘れ去りたい、思い出したくもない。あたいの暗黒時代に対する願いは半ばかなえられようとしている。成人式の際にあった同窓会でも、多くの人々の名前を思い出せなかったし、顔も分からなかった。けれども、当事者の姿はいまだ覚えていたし、理解していたし、ある意味では都合の悪いことばかりを忘れている気がしてならない。肝心なことを忘れてくれていない。
ここで一つ脳科学的な説明をしておく。人間の脳と言うのは、実に本人にとって都合のよい造りとなっている。思い出す必要がないと判断された記憶に対してはその記憶へのアクセスができなくなり(という面倒なかき方をしているのは、人間の脳はおおよそ120年分のの記憶全てを保持できるらしいから)、思い出せなくなる。また、こうやって断片化した記憶を再構築する際、つまりはこうやって語っているときには、補完機能が働く。つまり、ばらばらに分断された諸要素を、いかにもそれっぽくつなげるのである。それが正しいか否かは関係なく、当人はそれが実際に会ったものと認識しているからタチが悪い。
暗黒時代の記憶が消えかかっているあたいにとって、まさにこの補完機能が牙をむいているのである。あたいはあたいの記憶を信用できない。そもそもひどい仕打ちが実際にあったのかどうかも疑わしい。当該記事で「いじめ」のワードを使わなかったのはこれが理由だ。いじめを受けていたと自分の記憶は訴えている、でもそれは事実であるかどうかは、実際のところ、あたいにも分からない。
あたいには、自分の成立について信頼できない点がある。
これがあたいに新しい苦しみをもたらしている。あたいは間違いなく暗黒時代の出来事で人間的な成長が長期にわたって停滞、あるいは後退してしまったと思っているし、現に人間的な振る舞いにおいてためらいや恐怖が残っている。だが、自分が陥っている状況を根拠づける過去の事柄について、あたいは間違っているのではないか、正しくないのではと思っている。だとしたら、信用できない現象によっておかしくなっているというありさまは、あまりにも不可解ではないか。 間違っているのに、どうしてあたいはそれに基づいた振る舞いをしているのか。間違っているのなら、あたいが暗黒時代と思っていた時代をもっとより良い時代に感じられる方法があったのではないか。
この段階で、「衣谷創」という存在がせりあがってくる。小説を書きはじめたのが広義的には中学生から、教義的には高校生からであるけれども、衣谷という筆名を使うようになったのは高校1年の終わりごろだった。たぶん、この名前を使うようになってから思考回路がいくらか変わった。小説を追求し始めたと同時に使い始めたから、じつは筆名など関係なく、小説というものを手に入れたからだとは思うが、筆名を使うようになっては幾分か気の引き締まる思いであったのは間違いない。とはいえ、つきつめてゆけば、衣谷創という名前よりも、小説を書くという行為に影響されているのは予測できる。
小説は自分の中に語り手と言う他者を作って物語るものだ。自分の中になにか違うものSomething Wrongを想定して、そいつの視点をシミュレートする。こうして物語の視点を得て、文字に落としてゆく。あたいのこの思考は、仮想空間だけではなく、現実にも向いた。あたいの本心はこうだけれども、こうしたほうがよい。「こうしたほうがよい」という考えが語り手の語りに他ならない。本音と建前という言葉があるけれども、あたいにとっては建前と言うよりも、語り手。あたいの主観的な考えと語り手視点をシミュレートしたものによって行きついた考えがごちゃごちゃになっている。
おそらく、あたいはこの語り手を「衣谷創」と表現していることが多いのだと思う。あるいは、自分ではないなにかをシミュレートする装置を衣谷創と表現しているのか。こうやって自分とは違う視点を想定して、あたい自身を見つめたときに、その信用できない記憶に気づいてしまったのだと自分では考えている。
忘却は新しい苦しみをもたらして、くしくもそれはあたいがのめりこんだ創作によって、あたいが生み出した「衣谷創」によって発見してしまった。けれども、「衣谷創」がなければあたいはいまだに自分のバックグラウンドを信じて疑わなかったし、従来通りの思考に縛られて、現状よりもひどく疲弊していたに違いない。生きているかどうかも、あたいには分からない。ひとまず、「衣谷創」に感謝する必要はありそうだ。
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