間違いなく、311という数字はこの先永遠に日本人に付きまとってくるものとなると思う。
あの時から1年がたったと思うとね、早かったなあと思う一方で、無力だったなあ、とも思うんさ。いろんなことを考えて、いくつかは実践したけれども、やっぱりうまくはいかなかった、少なくともあたい自身はそう評価してる。
あたいには表現しかない。
だからこそ、表現でなにかできないかと考えた。事実は報道に任せればいい。なにか、助けられることを。すぐに頭に浮かんだのは、誰でもそうだと思うけれども、チャリティーぐらいで、小説で一助となると考えればこれ以上ないぐらい本望なことだった。
出版社に脈のない素人にとって、最も効率的に広く資金を集められる環境となると、あたいにはネット市場しか考えられなかったし、とてもじゃないがリアル本を制作してどこかで販売をやるという状況ではなかった。
あたいとしてはいくつかのダウンロード販売サイトと掛け合って、チャリティとしてできないかと模索してみた。あたいだけの作品じゃあ足りない、その時は部員を総動員すればなんとかなると思っていたし、参加した合同誌の主宰者にも話してみようかとも思っていた。けれども、あたいが当時参入していたところではどこもシステム上の都合でできないという答え。どれだけ販売部数を稼いでも、手取りが30%というのはあまりにも乏しすぎた。そのサイトでチャリティ作品を販売する人たちや、募金に応じて作品を送るというアクションを起こした人もいたけれども、やはりダウンロード販売としての利点を生かしたものとはとてもではないが思えなかった。すぐに買える、支援になる、手ごろ。どうしてもあたいの要求にこたえられる場所がなかった。
結局その後、1社だけあたいの求めていることを満たすところがあって、作品をチャリティ物品として出品するに至った。合同誌として人を集めるにはあまりにも時間がなかったので、声をかけるのはやめた。声をかければ、彼らの表現の意識が変わるだろうことは間違いなかったけれども、この点はもったいなくて仕方がない。
あたいは小説を最も商業化された芸術だと考えている。だからこそ本屋がそこらじゅうにあふれて、一般消費者にとってはもっとも身近なものである。化と思えば芸術性をうたう純文学なるものだってある。支援に直結するのは間違いなく商業的な側面。芸術で人は楽しませられるけれども、腹の足しにはならない。まずは小説の商業性が必要だった。だからこそあたいは収益性の高い場所を求めたし、それに見合ったアクションをした。
けれども、時間は経った。確かに今だって商業性、つまりカネが支援につながるのは間違いないけれども、これからは腹以外のところを満たす必要が出てきている。楽しませる必要がある。けれども、本を購入するだけの余裕がないとすれば、やはりそこはネット小説などの、それ自体ではただで得られるコンテンツが重要になってくる。人を楽しませるだけの作品、やはりそこには実力だとか技術が伴うわけだけれども、笑顔を失った人々にほほえみを与えてあげられる可能性は十分に高い。
けれども、あたいのように、面白おかしい話が書けない人、あるいはかけないと思っている人だっている。その人たちはただ指をくわえて原稿用紙を見つめていればいいのかと言えば、そうではない。中長期的に見れば、商業性よりも芸術性の側面が求められる。つまり、「後世に伝える」ための表現だ。なにがあったか、どんな有様なのか。報道は事実を伝えるしかできないけれども、表現であれば適宜脚色して(これは決していいこととは言えないかもしれないけれども)これを経験した事のない人たちに対して恐怖を植え付けることができる。この恐怖こそが、後世の人たちが大災害を乗り越えるのに必要なものに他ならない。
ただし、今は伝える必要がない。だれもがこの恐怖を理解しているだろうし、この恐怖には表現の入り込む余地がない。表現でできるよりもはるかにおぞましい戦慄を報道は提示している。
人々を楽しませながらも、いつか来る「書くべき時」のために今を心に刻み込む。表現者が求められるのは道化としての振る舞いと、この戦慄を心に残す覚悟なのかもしれない。
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