まあ、がっつり旧ぶろぐの内部告発ネタだね。
卒研という、毎年恒例の卒業生作品の地獄批評が在学生向けにあって、今年はあたいらが批評される番、ってことでどの作品の読書会をすればいいのか、という問い合わせがあったわけさ。
あたいとすれば、唯一読書会の場にさらしていない分野で一番まともにかけてるだろう物をやっぱり評定してほしいから、今年の個人誌(部員はほぼ誰も買ってくれてないよ! 販売数的に!)をやってくれーと返したら。
時間的に、無理。
まあ、その旨を言われてしまったんす。
はじめは適当に作品をピックアップしてやっといて、とは言ったんだけれども、バイトの最中にずっと考えてたら、やっぱ小説を書いている人間としての気持ちだとか思い入れがそれを許さなかったから、
『個人誌無理なら、読書会やんなくていいよ』
というお返しをしましたとさ。おしまいおしまい。
あたいはもうそういったことに対する決定権はないから、意見するだけしかできないけれどもさ。
個人誌の評価が得られる現状では唯一の機会である卒研の、後輩さん全員に評価してもらえる読書会の機会を拒絶されるのは、結構きついものがあるわけさ。
あたいの本領は部誌で扱う分量じゃないし、できればコンクールに出すような分量で評価を得たいわけさ。それもできないなんて、ね。
考えてみれば、文藝會の個人誌に対する扱いがぞんざいすぎやしないかと。個人誌は好きな人が書けばいいという考えかもしれないけれどさ、個人誌を書くためにはそれなりの気力と時間が必要なんさ。それでいて制作費用全負担で、リターンはわずかばかりの売り上げだけ。
こんなんじゃ、誰も個人誌を書こうとは思わないんじゃないかな? だって、何の特にもならないから。メリットなんかない。
あたいは売り上げを作品の価値を認めてくれた方の数という考え方で、評価の基準としていたわけだけれども、やっぱりそれって自分の成長につなげるにはちょっと難しいんだよね。『買う・買わない』という判断材料しかないから(だからといって、売上云々を考えるのはちょっと違う、という主張は全否定したい。小説の世界は、売上や販売部数が評価につながるから)。
一番うれしいのは、部員も買ってくれて、作品について積極的な議論があることだよね。自分の作品のいいところと悪いところがはっきりするのが、どこをどう改善するのがいいのかというアイディアを与えてくれるほうが、補助金1000円出るよりもよっぽどうれしい(だからといって1野口が悪いわけじゃない、メリット無からは多少の進歩かな)。
こういった事がないと、多分この先、個人誌を書く文化がなくなってしまう気がして、それがすごく文藝會にとって悪影響だと思うんだ。ただ部誌に作品を乗せればいい、なんて狭苦しい考えに縛られるようになってしまったら、文藝會なんてつぶれてしまった方がましだと思う。少なくとも、流通経済大学の文芸部と和洋女子大学の文芸部よりも質はよい(よかった?)のにもったいない。
さて、文藝會サイドは、あたいの『個人誌ができないなら読書会しなくていい』の意見に対して、どう答えを持って来るのか? これは見ものだね。
[2回]
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